医学薬資料古文書●明治5年 資生堂創立趣意書2丁 軍医頭 松本順 230610 [8672523]

医学薬資料古文書●明治5年 資生堂創立趣意書2丁 軍医頭 松本順 230610 [8672523]

販売価格: 13,500(税込)

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商品詳細

商品説明

大変貴重な史料が出て来ました。資生堂創立の理由について松本順が書いた資料です。良順会館がある長崎大学医学部から直筆と思われる資料が掲載されている本等の紹介をして戴きました。ありがとうございました。多くは国立国会図書館にあり公開されていますので氏名を中心に比較して見ました。全く同じということにはなりませんでしたが似ていると思います。
松本 良順(まつもと りょうじゅん、1832年7月13日(天保3年6月16日)- 1907年(明治40年)3月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本の医師(御典医、軍医)、政治家。爵位は男爵。西洋医学所頭取、将軍侍医、幕府陸軍軍医、大日本帝国陸軍軍医総監(初代)、貴族院貴族院勅選議員などを務めた。父は佐倉藩藩医で順天堂を営む佐藤泰然。外務大臣の林董は実弟。幼名は佐藤順之助。後に幕医の松本良甫の養子となる。明治4年(1871年)に従五位に叙せられた後、(じゅん)に改名した。号は蘭疇、楽痴。天保3年(1832年)6月16日、江戸麻布(東京都港区)に生まれる。嘉永元年(1848年)、佐倉藩で病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設していた父佐藤泰然の元へ行き、助手を勤める。嘉永2年(1849年)松本良甫の養子となる。嘉永3年(1850年)長男銈太郎誕生。安政4年(1857年)閏5月18日、長崎伝習之御用を命じられ、長崎海軍伝習所に赴く。オランダ軍軍医のポンペに医学等の蘭学を学ぶ。文久2年(1862年)閏8月8日、奥詰医師となり、医学所頭取助を兼ねる。文久3年(1863年)12月26日、奥医師に進み、医学所頭取(東京大学医学部の前身)となる。医学所をポンペ式の授業に改め、前任者緒方洪庵の適塾式の学習に慣れた学生らと対立する。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。戦後一時投獄されるが、明治2年1869年赦免され、出獄後に東京の早稲田に西洋式病院の蘭疇院設立[1]。山縣有朋などの薦めで明治4年(1871年)に兵部省に出仕。明治6年(1873年)大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。明治23年(1890年)9月29日、貴族院議員に勅選される[2]。明治35年(1902年)4月1日に退役した[3]。明治38年(1905年)3月2日、男爵の爵位を受ける。明治40年(1907年)3月12日 大磯の邸宅において心臓病のため死去[4][5]、享年75。墓所は神奈川県中郡大磯町の妙大寺。出典:ウィキペディア
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